2009/07/07

裸電球と祗園コンチキチン-1987

京都では祇園祭が始まり、京都が大好きな人たちや、主催する方々はこの季節、それぞれに湧いていることだろう。
けれど私は、もうそれほど祇園祭というものに感じなくなってきた。「あ、そうだね。もうそんなシーズンだねぇ。」 と、いうくらいである。 

私の故郷は相変わらず京都であることには変わりないし、祇園祭には数々の人たちと、それぞれの思い出があるのだが、何百年も続く宵山や巡行は、私が生きているかぎり逃げはしない。
自分の晩年はもう一度京都で暮らすことになるのか、はたまた、日本を離れることになるのかもしれないけれど(そういう人生もアリかな。って思っているので。)きっと、浴衣をきて扇子を持ち、あの蒸し暑い風が吹く、決して高くないビルの谷間の四条河原町と、河原町御池で辻回しを見ている自分がいる。そんなふうに思うのだ。



京都人は祇園祭の宵山は毎年行くが、鉾の巡行は見たことがない。
これは、「ご当地踏み絵(京都人版)」にも出てくるチェックリストのひとつであるけれど、私は運よく、4年続けて巡行を見ていた。

結婚以前の私が働いていたオフィスは、三条河原町のビルにあり、17日の巡行日は、毎年窓際に配置された「デセデ」のスネークソファの上から、女性スタッフ全員がお尻を突き出し、ぎりぎりで見える河原町御池の「辻回し」まで、見物できたのである。この日限りは、四条通、河原町通りに面するビルの上階はゆいいつ特等席になるのだった。

けれど、仕事中に巡行の見物とは、いかがなものか・・。それはオフィスの形態にもよるものかもしれないけれど、音楽関係者しか来ないそのオフィスには、巡行の時間に訪れる人など一人もいないのだ。上司ももちろん黙認していたし、年に一度の「祇園祭のハイライトだから。」と、のんびりしたムードも漂っていた。当時ビルでは来るお客様に、先着で「ちまき」も差し上げていた。


山鉾巡行をを観に行かれるのなら、やはり四条河原町と河原町御池の「辻回し(方向転換)」の位置がおすすめである。「青竹を敷き、水をかけ滑らして向きを90度変える。」これは一瞬にして、あの大きな鉾や山が「クリッ」と向きを変えるのだ。これは見ていてほんとうに面白かった。
大きな「長刀鉾」や「函谷鉾」・・「あっ。好きな蟷螂山が来たら教えてくださいね!」(※かまきり山とも呼び、1981年に109年ぶりに復活した。)

そう先輩に言っては、その合間に仕事をするのである。子どものように一番喜んで見ていたのは私だったし、先輩や上司たちはそれをわかっていて、その都度声をかけてくれた。
今ならこんな余裕はあるだろうか。


余裕といえばもうひとつ、オフィスでは毎月第二土曜日に、無料のピアノコンサートを開催していた。地元音大を出たばかりの新進のピアニストたちに、無償で場所とピアノを提供し、音楽に触れたい人々には、無料で招待した。
プログラムも奏者の自由。中にはアーテイストのこだわりから、マイナーな曲を選曲するピアニストもいたけれど、やっぱり彼らの曲は眠くなる。コンサートのセッティングのあとは、スクリャービンやラフマニノフで居眠り。それも私の仕事のひとつだった。

会社の自慢の顔でもあったそのオフィスは、バブルがはじけ、その数年後でテナントから撤退したと聞く。
短い間だったけど、決して実ることはなかったけれど、好きな畑で仕事ができて私は幸せだった。生涯、絵と音楽の世界以外では仕事をしたくない。と、心に決めていたけれど、いまではそうもいかない。


その頃、その無料のコンサートに、いつも家族でやってくるお客様がいて、徒歩で来られるそのお客様は、確か六角だったか蛸薬師だったか・・。町屋で職人さんのお父さんと、奥様。音大志望の女の子と、やんちゃな男の子。私が会社に入った年、女の子はまだ小学5年生だった。

私が最後に、憶えているのは、その町屋にグランドピアノを搬入したことだ。いちばん小さなグランドピアノを、町屋の2階から入れた。ギリギリの広さと、窓辺の天井はもう頭がつくほどの低さだった。それでもグランドピアノを。どうしても音楽をと、家族は願っていた。
あの女の子はその後どうしているのだろう。歳はきっと35、6歳になっているだろう。自分の子どもにピアノを教えているかもしれない。

私に懐いていた女の子も、私が会社を退職する頃には、思春期になっていて、コンサートに来ることも少なくなっていた。顔を合わすことも減ってしまった。
お父さんは、私が退職する年、宵山の夜にお家に招待してくれた。町屋の一階は、裸電球がまだ燈っていて、仕事が終わったお父さんは、すでにお酒が入っていた。奥様も「じゃあ、私もビール。」といって、仕事場の一角で私たちは飲んだ。

裸電球。 ピアノ。 コンチキチン。 である。 

お父さんは宵山にはいかないと言っていた。子どもたちはお小遣いを握りしめて、人ごみのする四条通りの屋台へ駈けだしていった。

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2009/07/02

月経 - Wikipedia

きっと今日のは、「すごいタイトルだな。」と、思う人が多いだろう。

いや。これが私なのです。 いつもの素の私ですから。どうぞお許しください。
男性の方々も読んでいると思いますが、これで女性の体というものを少しわかっていただければ幸いです。



先月・・いや。先々月くらいからか。 月経周期が異様に早くなってしまっているのだ。(正常月経周期:25〜38日・Wikipediaより。)
今回は21日、そして、前回は18日であった。
カレンダーには、ひと月で2コの赤い×マークを記してしまったことになる。

ちょっと・・かんべんしてよ。ひと月に2回だよ。と、すると、排卵も2回起こっていることになる。
いや、これはあきらかにホルモンバランスの崩れ。 私はかれこれ30年、ほとんどくるったことはなく、正常周期は28~30日のはずである。
いったい何が。。

仕事中にコソコソと、同僚に相談していた。すると、それは、「仕事上のストレスだ。」とか。「更年期障害だ」。とか。
「歳を取ると、だんだん周期が短くなるのだ。」とか、
いろいろな意見が返ってきた。 しかし、どれも自分で納得いくものはなかった。

1984年に私が就職をした頃、会社にはまだ「生理休暇」という特別な休暇が女性にだけ存在した。公の有給休暇である。しかし、1985年の男女雇用機会均等法の成立(昭和61年4月1日施行)以後、ぱったりと会社から消えてしまった。

初めて企業という組織の中で働き始めた私にとって、モロ出しストレートなそんな名称の休暇は取れるはずもない。
女性の先輩方々に、またコソコソ・・・と、「これって、どうやって使うんですか?」と、聞いたところ、
「申請を出さなければならない。」と、いう答えが返ってきた。そうなのだ、生理の最中に申請を出し、上司の印をついてもらって初めて取得できるのであった。
モロ「私はいま生理中です。」と、上司にバラさなければいけないのだった。

もちろん、ほんとうに申請を出して使っていた人など、その後聞いたこともなく、私もわからぬまま、「生理休暇」などという、ちょっとイヤな名前の休暇はなくなっていた。ほんとうにイヤな名前なので、みんな「SQ、SQ」と呼んでいた。
大きな企業では、いまでも有給として残っているかもしれないが、はたして名称は変わっているのだろうか。労働基準法を覗いてみると、いまだに「生理休暇」と呼んでいるので、たぶん名称はこのままかもしれない。これは変えたほうがいいのではないだろうか。


男女雇用機会均等法の成立から24年が経ち、私がいま「生理休暇を申請しなければならないとしたら、2歳年下の上司と10歳年下の上司になる。
そして月に2回の申請をしなければならない。

男性にはわかりづらいと思うが、人によっては仕事に集中できないほど、困難を極めるものなのだ。
私の妹などは、高校在学中に、生理痛で何度も学校を早退していた。
帰り道、意識朦朧となったことも何度かあったらしい。
先日など、同僚は、「ちょっとヤバいから下(社員休憩室)で寝てくる。。」と言って顔を見たら顔面蒼白なのだ。
私が常備している薬をあげたら、しばらくしてずいぶんマシになったと、煙草を吸っていた。

女性は強い。
月に一度、必ずくるそういう日でも、人知れず仕事をこなしているのだ。
笑って電話を取り、笑ってお茶を入れる。
できてあたりまえ。こなしてナンボの日々の仕事。残業をする人もいるだろう。

そして、子どもを産み、また仕事に復帰する。

いや。自分のことを言っているのではない。あなたのまわりで働く、全ての女性を見ていてほしいのだ。



私は・・といえば。

月に2回の生理。このバランスの崩れ・・。いつもの倍の多量の出血で、もうフラフラなのだ。明日は休暇だが、やはり検査に行くべきかどうか、悩んでいる。


いや。それよりも、誰か「焼肉」を奢ってくれるなら、病院よりも飛んでついて行くかもしれない。

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2009/06/24

ハルキ1989

「僕は37歳で、」

このフレーズから始まるのは、村上春樹のノルウェイの森である。 タイトルはビートルズの歌であり、きっと多くの人が「そんなん知っているよ。」と、このブログを見て思うだろう。

けれど、読んだことのない人のために、ここに書いておいた。


1989年に長男を産んだとき、ちょうどベストセラーになっていたのがこの本だったから。


出産したあの日は、視界が塞がるほど吹雪が舞う、寒い寒い夜だった。およそ45日も早く生まれてきた、私の初めての子どもは、取り上げられるとすぐに、NICU(新生児集中治療室)のある都市の病院へ搬送された。救急車でも40分かかる病院だった。
取り上げられて、直後。息子とは対面したものの、それから一週間余り。私は我が子と会うことはできなかったのである。ともに別々の病院のベットの上だったからだ。
誰に似ているか。とか、手がこんなにちいちゃい。とか、髪がうすいね。とか。
そんな会話は到底できず。
ただ「ごめんね。ごめんね。(私が早く産んでしまって。)」と、日々何をすることもなく、自分を責めていた。

あとから知ったことだが、未熟児を産んでしまった母親は、「ごめんね。」と、産んだ直後に我が子にきまってそう言うのだそうだ。



原因はやっぱり私にあるのかもしれないと、思った。
下腹部の痛さに耐えて、次の検診までガマンしたことや。(車でないと病院にいけないということ。)まだ慣れない土地や生活への日々のストレス。
その他いろいろなことを考えてみたけれど、原因はどうしてもほかには見つけることはできなかった。


退院しても、することのない母親・・と、いうのは極めて惨めなものである。息子はまだ保育器の中だ。いつ我が家に帰ってくるかわからない。
けれど、左右のおっぱいは「早く病院に持ってきて!」のサインと言わんばかりに、張り続けるのだ。
赤ちゃんのいない部屋で、自分の乳房を孤独に絞り、冷凍室にストックする。一日に何回も同じ作業を繰り返す。
この時のむなしさは、生涯忘れられないものになっている。

この1月、成人式を迎えた息子は、こんなこと知るよしもない。もちろん私も言わない。
ただ、私を見下ろすほど、デカくなってしまって。
いつからか、私が追いかけても追いつけないほどの足の速さになってしまった。



前置きが長くなったけど、この孤独に母乳を絞る合間に読んでいたのが、「ノルウェイの森」なのだ。
外に出られず、産後の安静で動くこともできず、私が頼んで主人に買ってきてもらった本だった。
産後すぐは活字を読んだらあかんよ。という、母の言うことも聞かず。けれど、あのとき、赤ちゃんのいないむなしさを埋めるものは、それしかなかった。


言うことを聞かなかったから、ここ数年の私の視力は極端に悪くなった。


「僕は37歳で。」

私はその時23歳であったから、自分が37歳になる。これからずいぶん先のその世界は一体どうなっているだろう。
そう思いながら、長男の退院を心待ちにしてページをめくった。

1回では理解できなかった。2回よんだ。

それから数年して、私は初版本をフリーマーケットで売ってしまった。
時代に流されて買ってしまった本だと、思っていた。時代はとうにバブルがはじけて、いつ終わるかわからない坂を下りはじめていた。

そして何年か前。本屋さんで文庫本になった「ノルウェイの森」をまた購入した。 2回読んだ。 今度は理解できた。
私はその時30歳を過ぎていた。

物語の中に出てくる登場人物は、全て個性的であり、「ぼく」自身が一番平凡な人間であった。
繋がる東京―京都という地。

初版本を、自分の心のむなしさから読んだ。そして、20年が経った。息子は偶然にも春樹ファンになっている。私は一度も息子にすすめたりはしていない。
「僕は37歳で。」 私はとうに、それを超える年齢になってしまった。

物語の出だしは大事である。
それは初デートで、まず、どこに連れていってくれるか。



そんなことに似ている。と、私は思う。

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2009/06/23

Sting at 右脳系

私は右脳系だ。 

えっ?「右脳系」なんてあるの?と聞かれれば、私に限って「ある。」と、答えてしまうだろう。

それはなぜか。
右脳を働かせてすること全般が、大好きだからだ。 というか、これってたぶん左脳が働いていないのではないか。とも思う。


親として、子どもにいいかげんで適当なことを言ってはいけない。と、常々思いながら、落ち込んでいるときには、ふと思いついた適当なことを言って慰めるのである。

決して参考にはならないけれど。書いてみよう。


本日帰ると、「Sting」がかかっていた。 

「ゴハンなににしようか。 今夜は二人分だけだしねぇ。 お母さんはなんでもいいんだけどねぇ。卵かけゴハンでも十分なんだけど。。」

「そうだ。ポトフにしようか。野菜やソーセージいっぱい入れてコンソメで煮るやつ。あれと、フランスパン残ってるのあるし。煮てる間にほかのことできちゃうし。ま、それで十分。」

てな具合に、平日の晩ゴハンはかなりいいかげんである。

食べているときに、新聞の投稿欄の「イラスト」を見ながら、「これいいね。」とか、「かわいいね。」とか言い合っていた。
お行儀は悪いけれど、食事中の新聞閲覧は、私は娘に許している。 新聞の記事について、小さな討論をしあうこともあるし、最近読まなくなった私のかわりに、読んでくれるときもある。そしてそれが楽しいからでもある。


投稿者の小さなイラストを見ていて、「私は絵を描くのがすごく時間がかかる。」と、ふと悩むように漏らしていた。確かにA4サイズ1枚のイラストに何日もかかって描いているのをよく見かけた。
「右脳で描けばいいんだよ。そしたら早い。お母さんは右脳でしか描いていない。きっとあんたは左脳で描いてるでしょう。手が長いな。。そしたら消して・・。また長さがちがう。そしてまた消して。。何回も何回もやりなおして、そして、またヘンになっちゃう。考えて、考えて描いているでしょう。」

黒田清輝が持ち込んだとされる、美術解剖学なんかは、まさに左脳系ではないかと思ってしまう。
で、きっと私は、ダヴィンチも黒田も、あまり魅力的に思えないのである。

「そんな簡単に言うけどねー。」 で、「さぁ。次から右脳で描こうか。」 と、言う話で終わった。


そして、今度は流れるPoliceの、「Majic」と、言う曲で、「いいよねぇ。これ好きなんだよね。」「私も。」という話になり、なぜ邦楽ではなく、洋楽が好きなのか。という話になった。

「あのね。なに言ってんだかさっぱりわからない。これがいいんだよ。旋律とリズム。これだけでいいんだよ。右脳で聴けるから。邦楽だと、つい詩を聞いちゃうでしょう。あれがあかんのよ。結局は左脳で聴いちゃう。」

「あ。だから英語のリスニングは、たとえ洋楽好きでもダメなワケなんだよね。リスニングがホント、ダメなんだよねぇ、私。洋楽は小さい頃から、自然に体に入ってくるものだったから。」


「そうそう。あれは別。」

「なるほど~。」


ああ。アホな母親を許して欲しい。 来年は大学受験なのに。


けれど、英単語をいくつ知っているか、二字熟語をいくつ知っているか、そんなことよりも
もっと大事なことが、あるでしょう。


梅の実が今年は少ない、少ない。。と、言っていたら、3か所から梅の実をもらった。梅酒の瓶がたくさんできた。
私が一人晩酌で飲んでも、1年分はあるかな。 (主人はアルコールを飲まない。)



沙羅の花も今年は少ない。


ここに書いている文章も、思いついたまま。 誰かのフレーズに似ていたり、読みにくかったりするでしょう。
それなのに、いつもこちらまで来てくれて、ほんとうにありがとうございます☆

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2009/06/18

Peter Gabriel ~バブルジュニアへ。

夜の買い物から帰ってくると、リビングでPeter Gabriel の「Us」が流れていた。

ソファでは娘が寝ていた。 疲れ果てての仮眠だろう。

「あっ。懐かしいねぇ。」と、思いつつ、ある人のブログで「いっしょにねんね」という赤ちゃん向けのCDが描かれていたことを思い出した。


Peter Gabriel で「いっしょにねんね。」の娘だな。 と、思った。 「Us」は娘が5歳の時によく聴いていたCDである。
きっと懐かしいのだろう。もしかしたら、ドラムの音は胎動の音かもしれない。



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買い物に出かける前、(昼間や夕方は混むので、私は夜の買い物がすきだ。)娘にこう話していた。

「おかあさんねぇ。やっと、もうそろそろ、ほんとうにヤバいんじゃないかと思い始めてきたよ。これって遅いよねぇ。 20年近く経ってからヤバいと思うなんて、遅すぎるよねぇ。」

なんのこと?

景気の低迷。もうホントにダメなんじゃないかと、思いだしてきた。

なんで?

バブルがハジけた頃はさ、こんなのきっと2、3年だよね。とか思ってて。ちょうどいいから、その間に育児専念すりゃいいやん。とか思ってた。
けど、景気がなかなか回復しなくて、けど10年もこんな状態続かないよなぁ。と、思ってた。そう思ってがんばって、仕事に出たらさ。10年くらい働いたら、また専業主婦に戻って、いろいろやるぞ!と思ってたら・・。なんだか、まだこれからもずうっと働かないといけない気がしてきた。

・・・・。

バブル世代に焦りが見えだしてきた・・。と、思う。
経済のことはよくわかんないけど・・。なんとなくね。 なんとなくそう思う。

ふうん・・。


ななめ向かいのおうちが、昨年競売にかけられていた。
約80坪の土地に、約140平米の建物。 確か上の女の子は長男と同い年だった。
ご家族は引越しのあいさつもなく、知らぬ間にいなくなってしまっていた。
住宅ローンでボーナス払いが払えなくなったから、差し押さえに至るケースが増えているという。身近で現実を見た。

ボーナスの大半が家のローンなんて、いやだね。という思いで、返済30年の我が家は、ボーナス払いはしていない。そして16年目である。
毎月毎月がんばって、それでごほうびがボーナスなんだから。 けれど、いつまでもあるなんて考えたらあかんよ。

そう決断して正解だったな。と、思う。 だって、今ではボーナス払いなんて払えないから。




新築のマイホームに、たった8年しか住めなかったご主人も、
たとえば、出世祝いに、TAG Heuer を買ってもらったご主人も、
ともに私の知る、バブル世代である。


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どんな時代が来ても、私は私でありたい。
たとえ戦争のさ中でも、美しいものや自然を愛し続けて、祖父は歩いていた。
写生帖片手に、絵筆を走らせていたのだ。

祖父にしては珍しい、色彩のない風景。



どきん、とした。

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2009/06/11

「Pet Shop Boys」 は、悪阻の味。

ブラーの「パークライフ」というアルバムを聴いていて、最後にペット・ショップ・ボーイズのリミックス版があるのに気付いた。

「Pet Shop Boys」 「おお~懐かしい☆」 という世代である。


そもそも私は、幼い頃はクラシックに始まり、母のプレスリー、パットブーン、モンロー、で育ち、J-POP、ジャズを噛み、クラシック畑で最初の仕事をしていたのである。

毎日流れる、アシュケナージとかホロヴィッツ、アルゲリッチ・・。ラベック姉妹、ブーニンやキーシンが当時は流行ってて。そうそう。リムスキー・コルサコフのシェエラザードなんかも一か月ほど毎日かかっていたっけ。あれは私はとても好きだった。

お忍びで、リヒテルやジョージ・ウィンストンが来るような、そんな事務所だった。キーシンも来たがっていた。日本では中村△子さんや、園田高△さん、ザ△ラー夫妻がしょっちゅう来ていた。

19~20歳代の前半が、毎日こんな環境の中で仕事をしていた。それでクラシックが嫌いになったというわけではない。ただ、なんとなく「仕事だな~。」と感じるからである。
だから、プライベートでは、それ以外のものを聴きたいのである。

20歳のときに、助手席でガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」のテープを、カー・ステレオに挿入したら、嫌な顔をされた。(笑)いま思えば当然かもしれない。
当時はMTVや、ベストヒットUSAなどの80年代洋楽が花盛りだったのだから。
ただ、ガーシュウィンはジャズっぽいので、ドライブにもいけるかな?と、思ったのだ。

妊娠中や生まれた赤ちゃんに、クラシックを聴かせる人はよくいるけれど、私の場合は、タイトル通り。「Pet Shop Boysは、悪阻の味。」なのだ。
1988年に最初の妊娠をし、それでも毎日毎日慣れない運転をしていた。車がないと、病院にもスーパーにも行けないからである。

そして毎日毎日、出産するまでの間、悪阻に悩まされ続けた。運転中の車内やガソリンの臭いは、さらに吐き気を煽り、せめてもの音楽がないと、やってられないのである。
胎教とか、そんなことは考えていない。 いま好きなものを聴ければいい、それだけだった。

そしてまさに当時ブレイクしたペット・ショップ・ボーイズばかりを聴いていたのだ。

West End girls(1985年)
Always on my mind(1987年) 

などを聴くと、いまでも吐き気を催す。けれど、これは名曲なのだ。これを聴いて、後続の若いミュージシャンたちがまた影響されていったのだろう。
そう思うと、90年代が外せないのだ。音楽は繋がるものを発見するとオモシロイ。それは、クラシックでもジャズでもポップスでも。ジャンルは多いけれど、もとはひとつなのだから。



ちなみに、第二子の時は「「ROXY MUSIC」 は、悪阻の味。」と、なる。この時は、新しいジャンルを開拓したくても、する気がないほど長男の育児で弱っていたので、お気に入りを聴いていたら、「悪阻の味。」と、なってしまったのである。

出産して、「悪阻」から解放された後も、毎日車の運転は続く。そして音楽は外せない。生まれたばかりの子どもたちは車の中で、この後も嫌というほど私好みの音楽を聴かされ続けていた。


ちなみに、胎教と音楽。赤ちゃんと音楽にやっぱり関係はあるのか?と聞かれると、
私は「そうでもないよ。」と答えてしまうだろう。

今ではクラシックとJーPOP(特にaiko)好きの長男。そして、US寄りの洋楽と、アニソン(アニメソング)しか聴かない長女に育ってしまったからである。

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2009/06/05

Look Inside America

90年代は育児に明け暮れて、まったく新しい音楽から遠ざかっていた私。
最近よく聴く。いいな。いまこれ。
まだよくわかんないバンドだけれど、いいぞこれ☆

ベースはやっぱりビートルズだな。


なんてったって、幼い頃少しでも耳にした曲は、一生ついてまわるのだ♪

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2009/06/04

little by little 21

子どもの頃欲しかったもの。


リカちゃん。 お祭りのおめん。とうもろこし。
「Uni」の鉛筆1ダース。

子犬。。



大人になってから欲しいと思ったもの。


土地に縛られない自由。 これが一番切実で、難しい。 そして一番贅沢なものかもしれない。


祖父はじゅうぶんわかっていたのだと思う。
自由とは引き換えに、もう帰ってはいけないことを。

郷里のお寺には、曽祖父のお墓もあり、曽曽祖父も眠っているというのに。
祖父はいっしょに眠りにつくことができるのだろうか。
母も私ももう京都人になってしまっていたから、せめて祖父と祖母だけでも・・。と、皆が願っている。

いや。私自身も果たしてどこで眠るのだろう。
この伊賀の地で?8代続いたお墓がある、オバタの田んぼが見下ろせる、小高い丘の主人の隣で?

いったい誰が来てくれるというの?
でももういいや。そんなこと。。 自分が死んだ以上、どこでもいいのだ。
私は何も守れなかったのだから、選ぶ権利はないのだ。

これを書いていて、ふと、「そうだ。祖父もきっとそう思っていたに違いない。」と感じた。


菊池塾のことを調べられている、女性の学芸員さんがいて、その方に
「最後はどこにおられたの?」と聞かれた。
「広沢の池のほうです。嵯峨野の・・。」と、曖昧に答えてしまった。 

びっくりして、正直うれしかったのだ。いままで、祖父のことを聞く人なんていなかったし、平成3年のお葬式の時は、祖父側の親戚、知り合いなど、祖父の関係者は誰もいなかったからだ。とても寂しいお葬式だったけれど。

けれど、一人娘の母と、私と妹。そして私の長男。その4人だけでも血のつながりは十分温かいものだった。

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2009/05/27

無題。。

・・・。  忙しくてもうぐったり。。

・・考えてみた。
21歳の頃の会社での自分の一日の仕事量を「1.0」とすると
いまは、ゼッタイ「2.0」以上はある。

ちなみに、官庁の仕事は「0.6」や、部署が変われば「0.4」くらいのところもある。
ワタシが1年間に作成した「売買契約書」はたった3通だったこともある。(官庁でも買ったり、売ったりします。)この仕事をワタシが来る前は主査がやってたんやから、たまんない。

外に仕事をもつお母さん方は忙しいので、仕事が終わっても「あ~。終わった。オツカレサマ。お先に失礼します。」の世界ではなく、
「あ~。終わった。さあ次の仕事にいってきます。お先に。」なのだ。

そして、また第二の仕事が始まる。 

ちいちゃいお子ちゃまを持つお母さんは、保育所などへお迎えにいく。
月曜と金曜は「フトンの日」。月曜日は、お昼寝ふとんを持っていき、金曜日は持ってかえる。フトンの日はしんどい。

みんな手づくりの、キルティングのかわゆい、おふとんブクロに入れて持ってくるのだけど、私は結構合理的だった。
おフトンを買ったときに、入ってたビニールの持ち手つきソフトケース。いいやん。これの方が雨に濡れても大丈夫やん。みんななんで使わへんの?手づくり、既製品の差で子どもへの愛情は計れないよ。みんなも使おうよ。

だけど、自分一人だったわ。 けど、私のこどもたちも、そんなこと全然気にしない。お母さんはお母さんでいいよね。

小学校に入ると、こんどは学期始めごとに、ぞうきんの提出だ。
一人2枚×こどもの数。 すると4枚。
ミシンがやばい。。4枚目になると、縫い目も適当。 針が折れたよ。 もう泣きそう。。

100円均一に、ぞうきんが売られはじめたとき、「ああ、神様。100均さま。なんでもっと早くぞうきんを売ってくれなかったのよ。」
けれど、よくぞ考えてくれました。忙しいお母さんの味方だね。
こんなにうれしかったことはない。


運動会シーズンになる。お父さんはビデオ係で、お母さんはカメラ係。
けれど、いったいどこにあんたたちがいるの??みんなおんなじ体操服でわからない。
ええい。ちょっと違う色のパンツをはきなさい。これなら、どこにいるかが一目でわかる。

一人だけ目立つ娘は喜んでいたけど、翌年、翌々年と同じことをしだす人が増えてきて、また自分の子どもの区別がつかなくなった。
そしてとうとう、「既定の体操服じゃないとダメ。」と、学校で禁止になった。

夏の水泳教室。
「おうちにある水着でいいので、持たせてください。」そうか、スクール水着じゃないんだ。新しく買わなくていいやん。経済的でいいね。


すると個別懇談で担任の先生が
「お母さん。あのですね。ひょう柄のビキニは・・。ちょっと。。△ちゃんは喜んでるんですけどね。。やっぱり、どうも。。」 え。ダメなの?これしかないんです。


数年後、夏の水泳教室は、強制的にスクール水着に統一された。



いろいろあったな。ひょっとしたら今より、とてもとても忙しい日々だったけど、
今はそんな日々が、懐かしい・・・。




今日は書きなぐりです。ごめんなさい。  

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2009/05/19

little by little 20

「・・・裸婦画・・」と、タイトルに付けただけで、その日のアクセス数がランダムブログなみになった。(Yahoo!ブログ)―なんだか笑ってしまう。

祖父が描いたピカソの模写をアップしていて
なんだか「東郷青児・・・」っぽいな。。と、思いながら、東郷青児を検索したみた。
やはりピカソに影響されていた。

祖父の絵もそうであるが、契月さんの影響を大きく受けている。
個性の違いは、女性の目であろうか。
学芸員さんが「處女(処女)」の図録を探し当ててくれたとき、
私は「ああ、この目はおじいちゃんなんですよ。」と、笑った。

祖父自身は男前のぱっちりとした二重だったのだが、祖父の描く女性はすべて一重の切れ長目である。
「處女」とはいいながら、艶めかしいこの眼差しはどうだろう。。
私の妹などは、祖父の描く多くの女性のこの眼差しのせいで、子どもの頃からずっと祖父の絵が怖かったそうだ。

女性のもつ外見とは違う、内面に隠されたもの。異性であるそれ以上のその奥の深さ・・あるいは「怖さ」を表現したかったのかもしれない。
それは瞬時に瞳に表われるものである。
松園の絵で「焔」という作品があるが、こちらとは対照的に、内に秘めきれずに爆発してしまった女性(松園)の情念をむき出しに描写している。

松園のなかでは、特にめずらしいこの絵は、いまどきの子どもたちに、「ヤンデレ」だよ。と、説明すると、わかりやすい。


ピカソ 模写  http://blogs.yahoo.co.jp/tukitohune/1324386.html

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2009/05/12

little by little 19

祖父の若い頃の作品が図録として見つかり、
祖父の名前がすでに机上のPCでデジタル化されていた。

ゴールデン・ウィークの京都市美術館の学芸員室での出来事である。



― 恥ずかしながら私は、学芸員の方の前で泣いてしまった。


昭和5年。 それから35年後に私が生まれて、
そして44年が経とうとしている。

79年を経て私の目に触れたその絵は。

ああ・・。 なんだかうまく言えないけれど、
祖父がこんな絵を描くひとで、とてもうれしかった。 ただ、今はそれだけでいっぱいなのだ。
言葉が見つからないのだ。


祖父の出生地、出生・死亡年月日、、これはこれからもずっと永遠に記録されていくことになる。

私が死んでからも、ずっと。ずっと。




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おじいちゃん。

京都は契月さんがやっぱり好きみたい。京都らしい、ほんまに品のある絵ぇかかはる人やもん。
ほんで京都は契月さんが育てた青年画家さんやらのことも、ちゃんと忘れたぁらへんかったで。
きっと、京都の街におじいちゃんの絵は、まだまだたくさん眠ってるんやろなぁ。
私が生きている間に、あと何枚見られるんやろ。。
ほんで、おじいちゃんがどうしても舞妓さんを描かへんかったわけが、なんとなくわかった気がした。
凛とした素の女性の美しさ。残念ながら、うちら孫はとてもこんな上品な女性にはなれへんかったわ。
ほんで、着物がかわいすぎる。こんなかわいい柄の着物描く人、他に見いひんえ。
高そうな柄の着物描く画家さんは、いっぱいいたはるけど、女の人自身が、「この着物きたい。」と、思うような柄描く人は、少ないねん。
それと、このおしろいケースのさりげない蝶々の柄も、センス抜群やん。

今は日本画観る人少ないねん。コレクション展行っても、いつもガラガラ・・。けど、私はゆっくり観れるからうれしいけどね。
ルーヴルはいつもすごい人だかりやのに、なんで日本人は日本画観いひんのやろう・・。と、思う。
たとえば男の人に、ルーヴルで展示されてるモデルの女性か、おじいちゃんの描く女性か、どっちに惚れる?って聞いてみたいくらい。
それくらい日本人は日本画から離れてしまってるねん。寂しいことやわ。
日本画を衰退させてしまったのは日本人、けれど、これからまた盛り上げていけるのも、日本人やもんな。日本画に興味もってくれる人、もっともっと増えていってくれたらええな。



おじいちゃんの作品が、菊池契月と菊池塾の青年画家たちに混じって、いつの日にか京都市美術館や国立近代美術館で展示されることを信じています。

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2009/05/05

little by little 18

祖父の足取りを少したどってみた。(日記、走り書きなど、記帳されていたもの。および印刷物から。)

17歳の時に、日本画の絵師を志し 地元、河村芳舟に師事する。
昭和2年上京。橋本雅邦の三男秀邦に運筆模写を師事。 (河村芳舟先生が、雅邦に師事していたためだと思われます。)
この時期伊藤深水にも師事。ひょっとして美人画を専門にするようになったのは、深水の影響ではないだろうか。

そして京都に入り、菊池契月に師事。


研究の境地は
藝術 宗教 政見 国粋美術 
そして自らを、清貧画人と呼んだ祖父。


祖父の古い作品が、市美術館の資料となって残っていた。

― 私はこの日、初めて本当の祖父に会ったような気がした。

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2009/04/28

little by little 17

祖父が亡くなってから、ほんとうにいろんなモノが出てきた。

まずは、私が別ブログなどに掲載している写生画、模写画、そして売れ残った掛軸画に、色紙画。和紙に描いた、美人画。
売る気のなかったお気に入り画に、売れた絵の写真。それらの小下絵。
そして極貧の学生の頃、郷里の曽祖父に充てた手紙(結局出せずじまいのもの。)
自らの画会(展示会)の注文申込書。ひいきだった舞子さんの写真、花名刺。
太平洋戦争入隊時の証明書。

応挙の掛軸。(後に本物or贋作、別々の鑑定士によって意見が二分されたままだが。。)ラファエロの母子画ポスター。年代物だけど、母も知らないお雛さま。その他の骨董品の数々。。

これらの家族の知らない絵。骨董品。日記・・。家族という繋がりを除けば、まさに孤高の芸術家であったともいえる。

そして、曽祖父が所有していた郷里のいくつかの細切れ状態の土地。こちらも、早く処理をしないと、だんだんややこしくなってくるのだが、先祖代々ひたすら欲のない家系・・。
実質動かないといけない母と、母の祖父方の唯一の従弟、この方は現役を退いてもいまだ研究に忙しく、京都には来られるのだが、桂の研究室との往復のみ。

まあ、そんな風にみながのんびりしているのである。せめて、私的には祖父の遺作の劣化の方が気になるので、そちらの保存代(表装代とか)がなんとかならないものか・・。と、思ったり、郷里の土地で「ギャラリーでも開いてあげたい。」と、思うところが本音であるのだが・・。


これらの曽祖父、祖父の残してきたものの中で、とうとう出てこなかったものがある。
それは、祖父が私と妹のために描いた二つの絵である。

生前亡くなるすこし前の祖母が、実家のキッチンで私にこっそり耳打ちした。
「ユカちゃんと、△△子のな。絵をひとつづつ描いたある。(描いてある。)って言うてたわ。」

「え。そうなん?」

けれど、それはとうとう出てこなかった。

祖母の曖昧な意識のなかで、架空に作られた話だったのか、もう80歳を過ぎていた祖父が、これから描くつもりだったのか・・それとも・・。


ふたつの絵を探す。



 -ビーズの赤いバックと、白いバック。幼い頃、私がいつも赤で、妹が白だった。 けれど後で私は白を欲しがる・・。

素足に赤い振袖を着た掛軸の桜姫。これは、やはり私宛の絵だったのだろうか・・。



そうすると・・妹のは・・。

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2009/04/26

little by little 16

祖母のことを文字にして綴ると、私は泣きそうになるので、まだなかなか綴れない。


京女の祖母はハイカラで、明治屋が好きで、洋菓子が好きで、モロゾフやゴンチャロフが好きで、毎日飲むほど紅茶が好きで、トーストが好きで、そしてコカ・コーラも好きだった。デパ地下や、ソニープラザにある輸入菓子を、よく私と妹に買ってきてくれた。



京都人は新しいもの好きである。神社・仏閣・・・モノゴコロついた時には、もうまわりは、グレーや茶色や、モノトーンや・・。そんな色ばかりで。
確かに歴史はあるのだろうけれど、生活に溶け込みすぎて、半ばもうウンザリなのだ。
だから、カラフルなパッケージや色に惹かれたり、異国の味に惹かれたりするのかもしれない。


祖母が亡くなる1年くらい前のこと。
ある日、明治屋で缶詰を二つ買ってきた。

「これなんやろうなぁ。食べるもんか?ユカちゃん。」
中身が何か分からなくても買っているのである。

どれどれ・・。見てみると、どちらもキューピーのミートソース缶だった。
「スパゲティにかけるもんよ。」と説明した。

祖母はただ、パッケージがかわいらしいから、ただそれだけで買ったと言っていた。
キューピーさんのマークと赤いギンガムチェック。
確かに缶だけみれば、オシャレだし、かわいらしい。思わず手に取ってしまったのも、わかるような気がした。
ちなみにキューピーのCMは、いまでもオシャレだと思う。

私の結婚が決まって、祖母が婚約者(現在の私の主人)に靴下をプレゼントした。大丸で買ってきたと言っていた。
祖母はずっと大丸が好きだったのもあるけど、実は靴下は高島屋よりも大丸のほうがセンスがいいのだ。帽子もだ。それはいまでも変わらない。
祖母はちゃんと知っていた。20代の男の子が履けるような、シックなアーガイル柄を選んでいた。

祖母はセンスのいいひとだった。



そして私はいまでも、三条の明治屋に入るたび、祖母を懐かしく思う。




     ※一気にたくさん書けないので、少しずつ更新しています。  
             little by little 1-2から始まっています。
http://blogs.yahoo.co.jp/tukitohune
                                       ↑別ブログです♪

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2009/04/21

little by little 15

本日、別ブログのほうに祖父の模写作品を追加で1枚アップした。

オリジナルは竹内栖鳳の「班猫」である。日本画に興味のない方でも、一度は何処かで見たことのある絵であり、猫ではないかと思う。
現在「山種美術館」で所蔵されているらしいのだが、実は私もオリジナルを観たことがないのだ。
http://www.yamatane-museum.or.jp/collection_intro.html

制作年は不明だが、祖父は小さな携帯用の写生帳に模写していた。おそらく、美術展に出かけて行って、その場で模写したものと思われる。

現代において、絵画の作品展でオリジナルを目の前で模写している画学生なんて、ほとんど・・いや、まず見かけない。
たとえいたとしても、ずっと同じ絵の前に貼りついているのは他の入館者にも迷惑だろうし、いったん二次元で描かれてしまったものを、そこまで綿密に模写する意味があるのか?と聞かれれば、私にもわからない。


けれど祖父は毎日通ったのだ。
少し描き、そしてまた次の日に来る。他の人の迷惑にならないように。


そして毎日、毎日、美術館に通い、模写していたのだろう。


あるとき、この行動が京都新聞の記者の目に止まり、新聞に掲載されたことがあったらしい。(昭和20年代半ば頃)
その時の模写が、この「班猫」であるかどうかはわからないけれど・・。




「アノトキノ、オトコハ、ワタシヲ、ズット、フカク、、フカク、ミツメテイタノダ・・。」



祖父のこの小さな模写が、
この猫の眼が、囁く。


私にはそう聞こえてならない。

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2009/04/20

Slave to Love (アラフォーのつぶやき。)

閑話休題。 ここらで、私のお気に入りの You tube を一曲。

http://www.youtube.com/watch?v=VSqGwOmKEwU


当時、ミッキー・ロークで大ブレイクした映画「ナイン・ハーフ」の挿入歌である。



予告もさることながら、当時映画館はほとんどカップルで満席状態だった。
映画は9週間半の恋人同士の出会いから別れを描いたものだが、今なら間違いなく(15禁)の映画である。

この時代、ハイソ(high society) などという言葉が流行ったくらい、みんな違うものを求めていたし、憧れていたのだ。
そして退屈な京都から、私たちはよく脱出を計った。

正直言うと、この映画が好きだ。流行ったからではなく、この映画が持つ、なんとなくの「けだるさ」
ブライアン・フェリーも相当「けだるい」けれど、私のもつこのブログも「けだるい」と、感じてくれた人がいた。


・・実は相当ウレシイ。

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2009/04/19

little by little 14

私のおばあちゃんは、大正4年生まれ。
岡山のそこそこの良家で12人兄弟の12番目の末っ子として生まれた。
一番上のお兄さん(長男)とは21歳も離れていたので、顔は憶えていない・・と、よく言っていたっけ。
お兄さんはもう戦争で亡くなっていた。

モノゴコロつかないうちに、一家して京都にやってきたのだが、祖母、母、私・・女三代の中で一番京都らしい京都弁を使っていたのは、実はおばあちゃんだった。
それにしても、12人も子どもを産んで育てた、曾おばあちゃんはすごいな。と、思う。
私にもひょっとしたら多産の血が流れているのかもしれない。なんて思ったりした。


末っ子で何不自由なく育ったおばあちゃんだが、まさか芸術家の妻になろうとは思ってもみなかったことだろう。
しかもおじいちゃんは、11歳も年上なのだったから。

祖父39歳、祖母28歳。 生まれた娘は、私の母、たった一人。




そして私はおばあちゃんっ子だった。



Photo

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2009/04/16

little by little 13

・・だんだん自分が偏屈者とか、あまのじゃくになっていってる。それが事実だとしても

まあええやん。 と、思ってしまう今日この頃。
それよか、ハチャメチャなおじいちゃんの思い出をひとつ思い出した。


私が小学校2年生くらいの頃、だったかな。久しぶりに絵が売れて、しかも10万円の値がついたそうだ。
この時代はまだ、日本画のお得意さんもちらほら残っていたのだ。
その多くは西陣の織物やさんや料亭屋さんなどではなかったか、と思う。戦後から2△年。京都も少しずつ潤いだしてきだのだろう。
マク△ナルド京都1号店が、高野アリーナ(現在はカナート洛北)にできたのも、この頃だ。
けれど逆に日本画は衰退していく。若冲がプライス氏のコレクションになっていくように・・日本人は日本画から離れていくのだ。

・・そして、その大事な売上金10万円を、おじいちゃんはなんと、その日のうちに落としてきてしまったのだった。

大黒屋(今も現存する。酒屋さん。)で、嬉しさにお酒を買い、酔って家に帰る途中の出来事だ。
封筒に入った10万円は、当然戻ることもなかった・・。

おばあちゃんや、おかあちゃんが、しつこくしつこく、そのことを話していたのを憶えてる。
だって、10万円は生活費なのだから。
―そしておじいちゃんは、描く以外に仕事をしていないのだから。





・・・おばあちゃんの苦労は、まだまだ続いていた。





    ※一気にたくさん書けないので、少しずつ更新しています。  
         little by little 1-2から始まっています。http://blogs.yahoo.co.jp/tukitohune
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2009/04/14

little by little 12

久しぶりに、旧ブログを更新した。と、いっても移動したのだが。


ブログというものが、始めた4年前に比べて数がものすごく増えていることにびっくりした。
けれどやっぱり、毎日読む新聞的(タイムリー)なものであることには変わらない。・・(過去の記事は探してまで読まないこと。)

日常的な個人の公開日記。私の嫌いなサークル。(同じ人しかこない。集う。)コメントを求めあう。。

しかもファン限定て。お気に入り登録って。。 なんやねん。これ・・・。等々・・。


4年前に比べて、私が歳を取り・・さらに偏屈者になってしまったのかもしれない。。


というわけで、いらないと思うものは、みんな外してしまった。






・・・だんだん、おじいちゃんに似てきた。。(笑)

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2009/04/08

little by little 10-11

20095



















・・・えーやろ・・。 美化しても。。










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「京都の歴史はすごく価値があるけれど、京都人には価値はないなぁ。。。」


私の娘の言葉だ。



そうやな。京都人はそれに気付いていない。
けれど、やっぱり寂しく思った。 

ただ、生まれて、育ってきて・・。 それだけだ。


それだけなんだよね。


旧ブログ移転中です。 

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